3月12日に考えたこと


 

昨夜は、CWSコモンズ佐藤修さんの
「自殺に追い込まれる状況をどうしたらなくしていけるか」の
ラウンドセッションに参加してきました

 
エンディングセラピー講師の椎原 澄です
昨年 佐藤さんたちが青山学院で
駐日EU代表部経済担当官のレネ・ダイグナンさんが
初めて監督・制作したドキュメンタリー映画
『Saving 10,000: Winning a War on Suicide in Japan』
の上映と討論会を行って以来の参加でした
⇨ 映画はYouTubeで観られます

佐藤さんは 極めてユニークな視点と行動哲学を持つ方なので
自殺防止!と声高に訴えたり 大きな会合を開いたりするのではなく
そういった状況を生む 社会的な状況を多面的に考えながら
20人くらいの様々な分野の 固定しない参加者で
様々な角度から この問題を話し合って行きたいと考えているそうです

昨日は「組織に働く人の自殺を考えるラウンドセッション」
実際には どこの企業・組織にもあることなのに
個人では事実の話してくれても 組織人として公開討論にはなかなか
参加しにくい できない話題でもあります

佐藤さんは 自殺という問題に向き合うのに
A:その事自体をマイナスとして 防止という観点から観るか
B:そういう事が起きないような 楽しい環境を作っていくという観点からみるか
のふたつの観点があると 話されていました

「環境」が彼らをどう受け止めているか というところからは
EAP(Employee Assistance Program:従業員支援プログラム)
を取り入れている企業でも 例えば1000人の従業員のうち
利用者は5%いかない
能動的に活用しようとする人へのケアでは成果を上げても
残りの95%の意識の動向は わからないという発言もあり

自殺者を出した と表立って言えない環境
「夫の死を自殺ではなく病死として欲しい」と望む家族
EAPは会社契約として成立するため
実際は本人とカウンセラーとの間に守秘義務があるのに
会社の人事は個人情報として把握しているのではないかとの疑い
成果主義の問題点や 組織内でのパワハラ 人間関係
仕事・家族関係・プライベートな交際等のうち
自殺へと向かう意識の比重は 何が一番重いのかなど
話題は多岐に及びましたが 私は少しのもどかしさを感じながら
うまく発言できないままでいました

昨日はレネさんは参加されませんでしたが
彼を映画製作に駆り立てたのは 親しい隣人の死だとのこと
自殺との戦いにおいて 「敵」はいったい誰なのか
何と戦うのかという Aの強烈な視点から
現在の日本の自殺者と その背景を模索しています

一方 防止以前に 死について語れる環境がない
という観点から 様々な取り組みを実践している方々の発言も
現在の社会環境の成り立ちを 様々に分析する意見もありました

P1000304

帰り道 私は自分がもどかしく感じた点について
自分の仕事を通しても いつでも感じている原点
「強者」と「弱者」 「ケアされる者」と「ケアする者」
という二元論そのものを超える表現について 考えていました
特に 個人とその他一切の外部が 切り離されているような二元性
物理的も 生理的にも 精神的にも
切り離されてきたひとつの結果としての自死

「自殺」はたしかに悲しい あって欲しくはないこと
そういう方向に本人を導かないためにできること
そういう方向を向いてしまった人に対して できるアプローチ
ケアできる環境づくり ケア以前の環境づくり

これからするべき そしてできることを
それぞれ真剣に考えること

そして 私ができることのひとつは
「生」と「死」を相対化 二元化しないことでもあると思いました
単純に生と死のつながりをいうのでもなく ただ相対化しない考え方
二元化を超えたところから発想してみる 行動してみる 具体性を持つ
私はそれを「仕事」と呼びたいと考えているようです

それは時に きれいごとに聞こえたり
具体性に欠けた表現に 聞こえるかもしれませんが

C:「人間がものを分配するのは 飢えた人間が生き残りのためにとった行動」
という近代の定説に対して 以前読んだ「家族の起源」山極寿一著 の中に
あったことばを 正確に引用してみようと思います

・・・<引用
D:食料を分配することが発達したのは 仲間同士の親睦を深め
より自由度の高い社会交渉を発現させ 多様な協力体制を作り上げる
役割を果たしたからに他ならない
・・・<引用終り

固い表現ではありますが
長いこと二元論で成り立ってきた時代の変換に向けて
CとDのどちらが正しいかというよりも
両方の意識が 人間の中にはあるけれど
自分が本当に 行動したくなる時って
「自分のため」なのか「誰かのため」なのか
どちらがどんな場合に 力やエネルギーがわき出すのかを
感じることはできると思うのです

高齢者が認知症に向かってしまう要因のひとつに
「自分がもう役に立たない」という 悲しい無意識があると思います
病気を持っていても 自分にまだできることがあり
人の役にたつことがわかると 元気になる方がいます

ただし「利他的に行動しよう!」と言ったらすでに二元論的
利己と利他の間に 降りて来るこのの感覚
このあたりは 多数の話し合いの中では
とても伝わりにくいな とも感じるのです

なんだかブログの2回目にしては 固い内容になってしまったかな
ずいぶんまとまりのない散文ですが
3月11日の翌日の これからなにをするかを 考えることでもありました

向き合う事ができると 楽しみ方がちょっとづつわかる
亡夫と暮らし その後両親と暮らしながら
私が感じてきたことでもあります

私たちの身体に
深く染み込んでしまっている 二元論から脱却を
様々に試みていきたいと 思っています

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3月11日が近づきましたね


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エンディングセラピー講師の椎原 澄です

3月11日が近づき
新聞やTVでもまた 様々な特集が組まれていますね
あの日 あなたはどうしていましたか?

私は2階で仕事をしながら
母に夕食は何が食べたいかを聞いて
自分の誕生日の ケーキでも買ってこようかな
と考えていた気がします

かなり長い揺れが続き
東京がこれだけ揺れるということは
いったいどこが震源地だろうと
パソコンよりもTVで観たほうが早いかな と思っていたら
階下から母が不安そうに 私を呼ぶ声が聞こえました

急いで階下に降りてからも
しばらくは揺れていましたから
上記のように考えたのは ほんの数秒だったのかもしれません
か細い母の身体をリビングの丈夫なテーブルの下に押し込んで
しばらくは 母を抱きかかえていたかな

TVのスイッチを入れた後の光景
音量を調節した記憶はないのですが
無音の世界でした……
ヘリコプターから撮影しているに違いない映像が
道路を走る車を映し出し
そこに迫る津波も捉えているのです

あそこに いま津波に追われて走っている車がいるという現実
その車が 追いついてしまった津波に 飲み込まれていくのです
その現実を 東京の揺れのおさまったリビングで 観ているという現実

あの日からしばらくは 自分の身の回りが 何も変わることなく
穏やかであることに えも言われぬ申し訳けなさを
感じ続けたことを 覚えています

石巻は 母が生まれた土地です
女学校への入学で 家族揃って仙台に 引っ越し
それから数年後に 大阪から仙台の大学に入学して 
下宿暮らしをしていた父と出会い やがて結婚したと聞いています

その石巻や仙台が 大変な姿で
その後 何日も何日も TVに映し出されるのに
もう親類も誰もなく 行き来もすっかり無かったからでしょうか
母がひとことも 何のことも 誰のことも口にしなかったのは
母の認知能力が そのように衰えていたからなのか 
不安や恐怖や心配を 口にしない母に 私は ほっとしていました

半年くらいたってからでした
たったひとこと「石巻 大変なことになってるんだって?」と
初めて知ったように 母がつぶやいたのは…
誰かの安否を気遣うなら 
私から連絡をとってみようかとは言えたでしょうが 
私が「地震と津波でとても大変な状態よ」と言うと
もうそれ以上の話は 何もしませんでした

あの頃 母の中では 死はどんな形を持っていたのでしょう
1年前の5月に 父を看取った後も
マイペースで 淡々と生活していた母

「私が中学生の頃 お母さんに
『人間は何のために生きているのかしら』なんて 
一番聞くのが相応しくないこと聞いたの覚えてる?」
と聞いたら 「さぁ〜?」って すっかり忘れていました

あの時 母は少し得意そうに「人間はね 何のために
何のために?って考えながら一生を送るんだよ」と言ったの
私は反射的に「ちがう!」と思ったけれど
それを口にはだしませんでした 

2007年から37年ぶりに 一緒に暮らす事になって
母にとっては それが正解だったのだなあって 思っています
私にとっては やはり違う答えだったので 
今 このように生きています

死生観も 生死観も 百人百様 違っていいのだけれど、
私は30代のころに勉強したルドルフ・シュタイナーの「人間論」の中で
「地球という 身体を持っていなければできないことをする場と時間」
という言葉が とても印象に残っています

これからも 生きている限り 与えられた身体と意識を使って
何ができるのかを 実践しながら生きていきたいと思います
若いうちから また 家族の中でも自然に 
それぞれの死を話題にできることも
できることの ひとつじゃないかなあ と考えています
あなたは どんな風に考えますか?

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